2008年10月02日

大阪、個室ビデオ店放火事件

大阪市内の個室ビデオ店で、客の男が店内に放火し、15人が死亡し10人が死亡した事件があった。

この様な事は、以前も歌舞伎町で44人が死亡した事件があった様に、迷路の様なビル内部と、悪意が折り重なって犠牲者を増やしている事は痛ましい限りだ。

ただ、以前の事件は「放火」「過失」と言ったモノだが、今回の事件は46歳の男の発作的な自殺願望だと言われている。

『生きるのが嫌になった…』

その男はこんな言葉を発している様だが、巻き添えを喰らった者はたまったモンじゃない。

残念な事に、この手の事件は多発している。
最近では秋葉原の無差別殺人事件も記憶に残っているだろう。

この様な事件の結末は、必ず加害者の『責任能力』という言葉によって進んでいく。
マスコミも被害者のからはどんどん遠ざかり、ただ、裁判の経過だけをセンセーショナルに報道していく。

被害者の…置き去り


この様な事件は、当然加害者の身勝手さから出ている。
しかも、マスコミや弁護士は、自分の事しか考えていないから、いかに事件を我が利に持っていくしか考えていない。
しかし本当は次の様に、物事を分けて考えなくてはならないのではないか
@どうやったら、この様な事件を無くしていくか
Aどうやって被害者のケアをするか
B事件を起こしてしまった者にどのように責任を取らすのか

@について:人間は集団生活の中で自分の存在意義を見いだし、それが生きる糧になる者である。
本来は、『村社会』的な生き方を日本人はしてきたが、戦後の米国型民主主義思想がはびこった結果、『個』としてのみの生き方が正しい生き方と思われる様になった。
しかし本来はそうでない。
集団から取り残された人間は自暴自棄になり、結果として犯罪に走ったり、自傷行為に陥ったりする。

ただ、困ったのが『一人で死ねない』連中だ。
今回の男もそうであったのだろう。
だからといって、「責任能力」云々を審議するだけでは何ら解決にはならない。

集団から取り残された人々の『駆け込み寺』を公的機関として作るべきだと思っている。
また、葬式宗教などと揶揄されている仏教関係者なども、自ら進んでその様な『駆け込み寺』を開く事も必要だろう。

何度も言うが、人間は一人では生きていけない。
心を開いて話しが出来、諭す事が出来る他人がいるだけで、この様な事件は減少するだろう。

Aについて:被害者のケアは、ようやく最近言われてきた事だ。
しかしマスコミは、加害者の報道だけに血道を上げ、被害者の報道は大きな話題にならない限り、何ら報道もしない。
その間、被害者は精神的にも、経済的にも大きなダメージを受けながら生きている。
また生き残っても障害を持ってしまった被害者もいる。

確かに、ダメージを喰らった被害者は「そっとしてほしい」と言った心境もわからいではないが、だからといって放置しておけばよいと言う事ではないだろう。

『社会は、貴方達の事は忘れていませんよ』と言ったメッセージを送り続ける事が必要になると思うのは僕だけだろうか。

Bについて:これは以前からも言っているが、心神喪失状態だから刑に変動があるのは、おかしい。
責任能力があろうと無かろうと、犯した罪に関しては断罪すべきだ。
当然、心神喪失状態に陥って犯罪を犯した者については、刑の執行中から執行後(死刑判決を受けた者を除く)に至るまで、再教育をおこなうプログラムを作成し処置しなくてはならない。

しかし、ここで大きな障害になっているのが弁護士ども
弁護士はこの要綱が無くなると、儲けにくくなる。
だから弁護士どもは、声を上げない。
上げたとしても『死刑反対』などと言った、意味不明の音声だけだ。



まあ、最後に自暴自棄になっている連中に…

森山直太朗の歌『生きてることが辛いなら』を歌えばいい。
最後まで、何度も何度も歌えばいい。
歌詞を噛みしめて歌えばいい。

他人を巻き込んで自分の命を他人に委ねるのは、卑怯以外の何ものでもない。
posted by 諷太郎 at 12:30| Comment(2) | TrackBack(0) | 事件・ニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
秋葉原に続いてまたもや大きな事件が起こってしまいました。早速テレビ各局は被疑者の私生活暴露を始め、最低最悪の人間像を報道しまくっています。これが完全なる悪人なのか、視聴者が求める悪人像の期待に応えるべく情報を選択しているのかは分かりませんが。

それで、おっしゃっている3分類について分けて考える事は私も重要な観点だと思っています。ところが、以前から思うところなんですが、日本人というのは責任追及依存体質といいますか、捜査至上主義とも言うべき意識を強く持っているんですよね。つまりBを厳格にすれば@もAも解決するというように。

@というのは行政的観点なんですよね。

捜査は、あくまで個人に対する責任追及を求めますから、実のところ動機に係る社会的背景までは情状を除き、争点に入れません。刑事司法はある種、被疑者と司法機関との闘いですから都合の悪い事は話しませんし、見えてこない所です。

日本でも特定の事故等では再発防止を目的とした調査委員会などの機関が活動していますが、マスコミを始め調査結果に責任追及機能を求めるあまり、うまく作用しているとは言えない現状です。本来ならば調査結果を裁判証拠として使わない位の厳格さが必要なんですが、結局捜査機関にすべてをもとめるところとなる訳です。

Aは、ケアを行う事は非常に大切だと思うんですが、マスコミの商業的感覚からすると、野次馬的観点や被疑者になりかわった応報感情の扇動等で視聴率アップを目指す可能性が極めて高いような気がしてなりません。被疑者が応報感情を持つのは当然としても、それに乗っかるマスコミは必ずしもケアの精神で活動しているとは限らないと思っています。特に被疑者が社会的弱者の場合に顕著ですが、バッシングに乗っかっていれば、反撃のリスクもありませんし。

Bについては(精神)医療刑法の観点で様々な論がある様ですが、教育刑の受け皿として刑務所はまだまだ不十分ですし、応報刑を求める声が高い現状で、高額な予算を伴う施設整備が整うかどうか困難を極めると考えられています。死刑を求める位のテンションで世論が高まれば実現するかもしれませんが、せいぜい現代の島流しとして、どこか遠い世界へ自給自足で行ってくれれば、といったところではないでしょうか。

今回の事件では、事件を発生させた被疑者の実行に至る背景や原因。甚大な被害が発生した建物設備上の不備など、社会的教訓として検討すべき事項は多くあると思います。被害当事者は別として、第三者たる自分としては冷静に見つめたいとも思っているんですが、世間はそれを許してくれないんでしょうね。
Posted by さら at 2008年10月02日 21:32
さら様、いつもコメント有り難うございます。

この事件は、僕がこの記事を書いた後も、次から次へと新しい事実が報道されていますね。
そのたびに、憤りが募るばかりです。

こうなってくると、@Aを飛び越えてBにばかり目が向いてくるのも、わからいでもないと思ってしまうのです。

僕も以前は、こんな記事を書いてましたしね。
八王子無差別殺傷事件と死刑反対論(2008年07月23日)
死刑廃止論者にもの申す(2007年01月09日)
まあ、今でも同様なんですが(^^;)

それはさておき気になったのは
>マスコミは必ずしもケアの精神で活動しているとは限らない…
の下りです。
私もそれを、強く危惧しています。

と言うか、マスコミ自体が加害者の報道ばかりするのは、単に視聴率を稼ぎたいからだと見えてしまうからです(捻くれてるなぁ)

僕自身はマスコミには被害者のケアは期待していません。
ただ、ケアが必要だという報道を、し続けて欲しいのです。

昨日もJR福知山線での電車脱線事故の被害者が自殺したニュースが流れましたね。
人の感情は非常にもろいものです。

事件に巻き込まれた人のケア無しに、我々は他人と共存出来る社会を作る事が出来るのだろうかと、思う次第です。
Posted by 諷太郎 at 2008年10月04日 15:37
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